想念観察の旅

想念をあるがままに見始めてずいぶん経ちます。人は思考します。この思考というのは、想念とは違います。思考とは、とどのつまり何かを決めることです。ミュージシャンになるんだ、お金持ちになるんだ、そういう思考です。この思考を実現すべく人は毎日を生きている、そういっても過言ではありません。この思考とは別に、想念というのは心に浮かんでは消えていく存在です。多くの人はこの想念が自分自身だと思い込んでいます。例えば、嫌いな食べ物がある、私はこの食べ物が嫌いだ、それが自分自身の変えがたい考えだと思っているのです。実際には想念は流れていきます。今日そうであったことが明日そうとは限りません。想念にとらわれなければ流れるまま、そのうち消えてしまうのです。なかにはなかなか消えない想念もあります。事実、私の今もっている想念に、おなかの調子を悪くする想念があります。もう何ヶ月もかかりきりになっていますが、未だにこの想念が消えません。おなかの具合は悪いままです。でも、このおなかの具合が悪いという状態を引き起こす想念をすべて流したときその問題は解決されるのです。他のどんな問題もこのような想念観察の手法によって解決されるようにできています。想念とはそういうものなのです。ほんの一瞬で解決される想念もあれば、100年経っても200年経っても解決されない想念もあるでしょう。人はその時点時点においてもっとも適切な問題を抱え解決していきます。私にとってはこのおなかの調子が悪いという想念が今の私に最適な問題なのでしょう。早く解決したいですが、よりひろい観点に気づき問題が問題ではなくなるにはいたっていません。人は誰でも本質的に病気なのです。そのことに気づき、病気とともに生き、病気とともにうららかに過ごす道を選ぶのです。病気とは正常ではないことです。この世にいる人で正常な人はいません。みな病気もちなのです。人それぞれ解決すべき問題は異なります。ですから、病気に対するアプローチの仕方も違うわけです。私は、想念観察により自力本願で解決する道を選びました。この方法は大多数の人にとっておいしい道ですが、道のすべてではありません。わかっているのは、進む道は違っても最終的に行き着く先が同じだということです。人はみな兄弟です。老いも若きも楽しく仲良くそれぞれの道を歩みたいものです。